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2016年 05月 05日

実盛堂

2015.9.5~6
実盛の館跡、実盛堂へ
【福井県坂井市丸岡町長畝】
長畝の村から大内峠に抜ける道に入り、少し行って左に折れた上長畝の村の中に、
斉藤実盛の館跡、「実盛堂」があります。
実盛はここに住んでいた。
堂内に仏師新井九郎兵衛作の実盛の武人像と仏像が祀られている。

御堂は総檜造り、瓦葺で桁高約3.4メートル、
間口約2.7メートル、奥行き約3.8メートル。
中央正面に武将姿の実盛像、
右側に十一面観音像、左側に僧形の実盛像が鎮座しています。


斉藤実盛 天永二年(1111年)生~寿永二年(1183年)没
平安時代末期の武将。
藤原利仁の流れを汲む斎藤実直の子。
越前(福井県)の人であるが、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)という処に移り住み、
源為義・源義朝の忠実な武将として仕えた。
保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)と相次いで、
実盛は源義朝に従って軍功をたてたが、戦いは源氏の敗北となり、実盛は故郷の越前へ戻った。
平治の乱後、実盛は縁あって平宗盛に仕えることになり長畝郷を与えられる。

寿永元年(1182年)実盛は長畝館に居て
「今度其方の手柄に於て、長畝上屋舗並に横町砂法寺共六ヶ所千二百六十歩、
右は永代棹入れず相与ふるものなり」と、部下の斉藤斎曾へ安堵状を渡している。
【北作兵衛家文書】

くりから谷の戦いに、長畝城が出てくる。
居館に建てたもので、武具や兵糧の倉庫にあてた程度のものであった。
木曾義仲追討のため、平維盛が十万騎を引きいて、京都を出発したのは、
寿永二年四月(1183年)であった。

出陣にあたり、生きて再び帰らぬと覚悟した実盛は、
「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから、
白髪を黒く染め、平宗盛から直垂と脛当をもらい受けた。
平家の軍勢は越前に入り、林六郎の守る燧城を打ち破り、川上城より更に御簾尾に退いた。

これより加賀に進み、越中に突入しようとして、平家は篠原の戦いで大敗した。
味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は、老齢の身を押し一歩も引かず最後まで奮戦したが、
木曾義仲の武将・手塚光盛との一騎打ちで討ち取られ、ついに壮烈な戦死をとげた。

木曾義仲が、首を付近の池で洗わせたところ、みるみると白髪へと変わった。
これを見た義仲ははっとした。義仲の父が悪源太に殺された時、
義仲は、まだ二才であった。悪源太はこの幼児まで殺そうとしたが、
実盛がひそかに連れ出し、木曾の山中に送って成人させた。
命の恩人の首を前にして義仲はさめざめと泣いた。

「平家物語巻第七」
「実盛最期」に、赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧をつけ、鍬形打った甲の緒をしめ、
黄金作りの太刀をはき、二十四さした切斑の矢をおい、重藤の弓を持ち、
連銭芦毛の馬に金覆輪の鞍をおいて乗っていたと述べている。

この地には、斉藤実盛の長畝館があった。
一八四五年に、実盛の居館跡といわれる場所に実盛堂が建てられた。
堂の横を殿馬場といい、古くから村人は厚く崇拝してきた。

実盛堂正面には、武将姿の実盛像(弘化二年三月大阪大仏師新井久兵衛の銘)があり、
向かって右は十一面観音像、左は仏体の実盛像である。

尚、実盛堂より南方1kmに「実盛池」があり、源平合戦で名高い斉藤実盛に縁の池である。
実盛誕生の際にこの池の水を産湯に使ったとも言われている。
【丸岡町史抜粋】

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by eki06 | 2016-05-05 08:00 | 旅行 | Comments(0)


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